泥田坊

どろたぼうdorotabo

泥田坊は、夜の田んぼに現れ、片腕を突き上げて「田を返せ」と叫ぶとされる日本の妖怪。

イメージ画(当サイト制作)
分類
里の怪
分布
伝承地なし
出没
泥田
弱点・対処
未詳
主な初期記録
『今昔百鬼拾遺』(1781)

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解説Overview

泥田坊(どろたぼう)は、鳥山石燕の画集『今昔百鬼拾遺』(1781年)に図と解説がある妖怪である。石燕の図は、泥田から上半身だけを現し、顔は片目、手の指は3本である。解説文は、北国の翁が子孫のために買って耕した田を遺して死んだのち、酒に溺れた息子がその田を売り、夜な夜な田に一つ目の者が現れて「田を返せ、田を返せ」と罵った、と記す。

この話に対応する近世の他文献や民間伝承は確認されておらず、未詳とされる。呼称は石燕の画題「泥田坊」が基本で、山田野理夫『東北怪談の旅』は山形県庄内を舞台にした「ドロ田坊」の話を載せるが、伝承の採集ではなく創作である。昭和・平成の妖怪書は石燕の文を、田を遺した農夫が放蕩息子を怨んで化したものとして要約する。分布として特定の伝承地は無い。

名称と語源

泥田坊は、鳥山石燕の画集『今昔百鬼拾遺』(1781年)に掲げられた呼称で、読みはどろたぼうである。この名が近世の他の文献や民間の異名として残った例は確認されておらず、初出はこの画集にとどまる。

由来については、何もかも台無しにすることや無茶なことをすることを意味する諺「泥田を棒で打つ」をもとに石燕が名づけたという説と、石燕と狂歌を通じて交流があったと推測される紀州藩の典医・品川玄湖の雅号「泥田坊夢成」(どろたぼう ゆめなり)に由来するという説とがある。妖怪研究家・多田克己は『百鬼解読』(1999年)で、この名を言葉遊びによる石燕の創作とみなし、「泥」が放蕩の「蕩」(どろ)に通じること、泥田坊夢成が吉原の遊郭で身を持ち崩したとされることを挙げる。

山田野理夫『東北怪談の旅』(1974年)は「ドロ田坊」という題で山形県庄内の話を載せる。山田は伝承のない石燕の妖怪に話を創作したことで知られ、このカタカナ混じりの表記は民間の異名ではなく著者の題名である。話中では泥だらけの坊主として現れ、名の「坊」は僧形を示す。童子型や獣型の異名は採られていない。

出典: 〔1〕〔2〕〔5〕

姿かたち

泥田坊の図像は、鳥山石燕の画集『今昔百鬼拾遺』(1781年)に拠る。石燕は顔を片目のみとし、手の指を三本、泥田から上半身だけを現した姿でこれを描いた。

同書の解説文は、夜な夜な田に現れるものを一つ目の者と記す。この姿を裏付ける描写は、当時の他の文献や民間伝承には確認されておらず、未詳とされる。

山田野理夫は1974年の『東北怪談の旅』に「ドロ田坊」の題で、田から現れた泥だらけの坊主という姿を書いた。山田の文は山形県庄内の話として掲げられるが、石燕の妖怪に無い伝承を創作した例とされる。片目と三本指の石燕図とは異なる僧形である。

昭和・平成以後の妖怪文献は石燕の図と解説に拠って姿を紹介する。水木しげるは1994年の『図説 日本妖怪大全』に泥田坊の図を載せ、石燕の解説に拠る紹介を付した。片目・三本指・泥田からの上半身という定型は、石燕図を踏襲したこの系譜で固まった。

出典: 〔1〕〔2〕〔4〕

性質と弱点

夜の泥田に現れて「田を返せ」と罵ることが、鳥山石燕の画集『今昔百鬼拾遺』(1781年)の解説に記されている。北国の翁が子孫のために田を買って耕作し、その田を遺して亡くなったのち、農業を継がず酒に耽った息子が田を売り払い、夜な夜な田に者が現れて「田を返せ、田を返せ」と罵ったという。

昭和以後の妖怪文献は、田を遺して死んだ農夫が放蕩の息子を怨んで化したと読む。村上健司『妖怪事典』(2000年)は石燕の解説を要約し、この通説を載せる。人への関わりは遺した田を失わせた者への罵りであり、恩恵や守護を施す話は見えない。

山田野理夫『東北怪談の旅』(1974年)は「ドロ田坊」と題し、山形県庄内の話として、田のあぜに泥だらけの坊主が現れ「蛇の子を産むより田植えをしろ」と言い放ったと述べる。田植えを怠った者を叱る働きとして書かれるが、石燕の解説に無い伝承を山田が創作した例とされる。

弱点、退治法、禁忌は未詳である。石燕の解説以外に当時の他文献や民間伝承で同種の話は確認されておらず、水木しげる『図説 日本妖怪大全』(1994年)も石燕の解説に拠る紹介にとどまり、対処は示さない。

出典: 〔1〕〔2〕〔4〕〔6〕

伝承・逸話

石燕画集の解説話: 鳥山石燕の画集『今昔百鬼拾遺』(1781年)の解説文は、次の筋を記す。北国に住む翁が子孫のために田を買って耕作し、その田を遺して亡くなった。息子は農業を継がず酒を飲んでばかりいて、果ては田を売り払った。その後、夜な夜な田に一つ目の者が現れ、「田を返せ、田を返せ」と罵った、とある。同じ話は当時の他の文献や民間伝承では確認されておらず、未詳とされる。

放蕩息子を怨む化身: 昭和・平成以後の妖怪文献は、石燕の解説文をもとに、農業を営む老人が田を遺して死んだ末、放蕩息子を怨んで泥田坊という妖怪と化した、という話型で解説する。村上健司の『妖怪事典』(2000年)は、石燕の解説を要約し、田を遺した農夫が放蕩息子を怨んで化したものとするこの通説を載せる。

庄内のドロ田坊: 小説家・山田野理夫の著書『東北怪談の旅』(1974年)は、「ドロ田坊」という題で山形県にあった話として次のように述べる。庄内に住むアキは、夫の半左衛門が川の工事に狩り出されて家を空けているあいだ、毎日家で怠けていた。周囲から、田で働いている者と同じように家から出ろと言われ、仕方なく出たものの田植えをせずにぶらついた。あるとき山で見かけない若者に会い、契って毎日通うようになった。半左衛門が仕事を終えて帰るとアキはおらず、人づてに山へ行っていると聞いて向かうと、蛇を股に巻きつけたアキが卵を産み落としていた。呆れた半左衛門は、アキに蛇の妻になれと言い、離婚を言い渡した。アキが山を降りて田のあぜ道を歩くと、田から泥だらけの坊主「ドロ田坊」が現れ、「蛇の子を産むより田植えをしろ」と言い放ったという。山田は、本来伝承が存在しない石燕の妖怪の伝承を多数創作したことで知られる。

出典: 〔1〕〔2〕〔6〕

起源と解釈

定説:石燕画集にのみ見える成立

泥田坊の起源について、鳥山石燕の画集『今昔百鬼拾遺』(1781年)以外に、近世の古い文献における伝承は確認されておらず、当時の民間伝承も未詳とされる。昭和・平成以後の妖怪文献は、石燕の解説文をもとに、田を遺した農夫が放蕩息子を怨んで化したものとして説明する。村上健司『妖怪事典』(2000年)はその通説を載せ、水木しげる『図説 日本妖怪大全』(1994年)も石燕の解説に拠る紹介を置く。

図像の読み:阿部正路

国文学者・阿部正路は『日本の妖怪たち』(1981年)で、人の五本指を知恵と慈悲の二美徳と瞋恚・貪婪・愚痴の三悪徳に対応させ、三本指の泥田坊を悪徳のみで生きる卑しい存在ではないかと述べた。

少数説:多田克己の遊里解読

妖怪研究家・多田克己は『百鬼解読』(1999年)で、泥田坊を石燕が言葉遊びから創作し、新吉原を妖怪の姿として描いたものではないかとする。江戸で「北国」は新吉原の異称で吉原田圃とも呼ばれたこと、「田を返せ」(田を耕せ)を性交の隠語、「泥」を放蕩の「蕩」に通じるとし、翁の死を「翁亡くす」から「置なくす」(質草を流す)と読む。一つ目を男性器の隠語、「田を返せ」を新吉原の客引きの言葉とも解釈する。

出典: 〔1〕〔3〕〔4〕〔5〕〔6〕

史料の変遷

初出:鳥山石燕の画集『今昔百鬼拾遺』(1781年)に図と解説が掲げられたのが、泥田坊についてたどれる最初の記録である。

近世の空白:石燕の解説以外に、当時の他の文献や民間伝承で同趣旨の話は確認されておらず、画集以後の近世記録は未詳とされている。

昭和の創作記録:小説家・山田野理夫は『東北怪談の旅』(1974年)に「ドロ田坊」と題し、山形県庄内の話として画集に無い筋を記した。山田は、本来伝承が存在しない石燕の妖怪の伝承を多数創作したことで知られる。

昭和以後の事典:昭和・平成以後の妖怪文献は、石燕の解説文をもとに、農業を営む老人が田を遺して死んだ末、放蕩息子を怨んで妖怪と化した話として紹介する。水木しげるの『図説 日本妖怪大全』(1994年)は泥田坊の図とともに石燕の解説に拠る紹介を載せ、村上健司の『妖怪事典』(2000年)は石燕の解説を要約し、その通説を載せる。

出典: 〔1〕〔2〕〔4〕〔6〕

ゆかりの地

伝承地: 鳥山石燕の画集『今昔百鬼拾遺』(1781年)の解説は、翁の住まいを「北国」とするにとどまる。村名・社寺・祭礼・碑の所在は記されず、訪ね得る土地はない。

庄内(山形県): 山田野理夫の『東北怪談の旅』(1974年)は、「ドロ田坊」と題し、山形県庄内にあった話として一編を載せる。山田は本来伝承が存在しない石燕の妖怪に伝承を創作した例として知られ、庄内に社寺や碑は記されない。民俗の伝承地として訪ねる根拠にはならない。

新吉原(江戸): 多田克己の『百鬼解読』(1999年)は、石燕の文中の「北国」を江戸の新吉原の異称と読み、同所が吉原田圃とも呼ばれたことを挙げる。言葉遊びによる解釈であり、新吉原に泥田坊を祀る社や碑があったとする記述ではない。

出典: 〔1〕〔2〕〔5〕

現代の受容

文学:山田野理夫は1974年の著書『東北怪談の旅』に「ドロ田坊」を山形県庄内の話として書いた。石燕の妖怪に本来無い伝承を創作した例とされ、画集の解説とは別系統の文学上の像がここに見える。

図鑑:昭和・平成以後の妖怪文献は、石燕の解説文をもとに、田を遺した農夫が放蕩息子を怨んで妖怪と化したとする通説でこれを紹介する。水木しげるの1994年『図説 日本妖怪大全』は図を添えて石燕の解説に拠る紹介を載せ、村上健司の2000年『妖怪事典』もその要約と通説を記す。図鑑のキャラクター像は、この怨む農夫に寄る。

観光:境港市の水木しげるロードは「泥田坊」の頁を公開し、2022年1月27日時点で確認できる。民間伝承の話型は当時の他文献に見当たらず未詳とされ、同ロードに名が載る対象は、水木しげるの1994年『図説 日本妖怪大全』が図とともに紹介した図鑑上のキャラクターである。

出典: 〔2〕〔4〕〔6〕

出典・参考文献References

  1. 『今昔百鬼拾遺』 鳥山石燕 1781
    「泥田坊」の図と解説。片目・三本指で泥田から上半身だけを現した姿と、北国の翁の田を息子が売り、夜な夜な「田を返せ」と罵る一つ目の者の文。
  2. 『東北怪談の旅』 山田野理夫(自由国民社) 1974
    「ドロ田坊」題で山形県庄内の話として、田のあぜに現れた泥だらけの坊主が「蛇の子を産むより田植えをしろ」と言う筋を載せる。石燕の妖怪に無い伝承を創作した例とされる。
  3. 『日本の妖怪たち』 阿部正路(東京書籍) 1981
    三本指を、瞋恚・貪婪・愚痴の三悪徳のみで知恵と慈悲が無い卑しい存在と読む。
  4. 『図説 日本妖怪大全』 水木しげる(講談社) 1994
    泥田坊の図とともに、石燕の解説に拠る紹介を載せる。
  5. 『百鬼解読』 多田克己(講談社) 1999
    石燕の文を遊里の言葉遊びと読み、北国を新吉原の異称、「田を返せ」を隠語と見る。
  6. 『妖怪事典』 村上健司(毎日新聞社) 2000
    石燕の解説を要約し、田を遺した農夫が放蕩息子を怨んで化したものとする昭和以後の通説を載せる。

ランキング順位Rankings

ゆかりの地Places

  • 庄内(山形県)山田野理夫『東北怪談の旅』の「ドロ田坊」の舞台。民間伝承の採集地ではなく、石燕の妖怪に無い話を創作した場とされる。
  • 新吉原(東京都)多田克己は、石燕の文の「北国」を江戸の新吉原の異称(吉原田圃)と読み、遊里の隠語で解説文を解する。

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よくある質問FAQ

泥田坊はどんな妖怪ですか?

夜の田んぼに現れ、片腕を上げて「田を返せ」と叫ぶとされる妖怪です。農民の怨念が元になったという伝承があります。

泥田坊の出典は何ですか?

柳田國男の『妖怪談義』が主要な出典として知られています。また、水木しげるの妖怪画や妖怪事典でも紹介されています。

泥田坊に民間伝承はありますか?

確認されていません。石燕の解説以外に近世の記録は無く、民間伝承としても未詳です。昭和以後の解説は石燕の文を要約したものです。

なぜ「田を返せ」と言うのですか?

石燕の解説では、北国の翁が遺した田を息子が売り払ったのち、田に現れた一つ目の者がそう罵ったとあります。多田克己は、江戸で北国が新吉原の異称だったことなどから、遊里の隠語と読む説を示しています。

山田野理夫のドロ田坊は伝承ですか?

『東北怪談の旅』の「ドロ田坊」は山形県庄内を舞台にしますが、石燕の妖怪に伝承が無いものを創作した例として知られます。民間の採集記録ではありません。

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最終更新: · 編集: 百鬼編集室