件
件(くだん)は、近世から近代の日本で、牛の姿に人面を持つとされる予言獣。疫病や戦争を予言したと伝わる。

- 分類
- 予言獣
- 分布
- 日本各地
- 出没
- 民家の牛・山中
- 弱点・対処
- 絵図を貼る
- 主な初期記録
- 『密局日乗』(1819)
解説Overview
件(くだん)は、人の顔に牛の体をもつ予言獣である。漢字は人偏に牛で、書いて字のごとく半人半牛の姿を示す。文献に現れるのは江戸時代後期で、文政2年(1819年)の日記『密局日乗』に、防州上ノ関の民家の牛から生まれた人面牛身の子が自らを「件」と名づけ、人語で豊作と兵乱を予言したとある。
呼称は「件」のほか、越中国立山に現れた「くたべ」(クダベ・クタヘ等)がある。摺物では「件」を唐名、「クタベ」を和名とする。姿は人面牛身が通例だが、くたべ系には女面や老面、鋭い爪、胴に目を描く例もある。性質は疫病や豊凶を予言し、絵図を見たり貼ったりすれば災厄を避けられると教える。くたべ系は疫病のみを告げ、豊作は言わない。出現談は丹後の倉橋山、越中の立山、出雲、五島列島など各地の瓦版・日記・新聞に残る。
名称と語源
「件」は人偏に「牛」を合わせた字であり、書いて字のごとし、牛の体と人間の顔の怪物を指す呼び名とされる。『密局日乗』文政2年5月13日条(1819年)には、防州上ノ関の民家の牛から生まれた子が、自らを「件」と名づけよと指示したと記される。
証文末尾の定型句「(よって)件の如し(如件)」は、西日本各地の伝承では件の予言が外れない、嘘偽りがない、という意味だと説明されることがある。天保年間の瓦版には、件は正直な獣であるから証文の末尾にも「件の如し」と書く、との説があり、毛利家文庫の『止可雑記』(山口県文書館蔵)は天保7年の瓦版から書写したとされる件の文を残す。「如件」は平安時代の『枕草子』にも見え、怪物「件」の記述は江戸時代後期からであるため、両者を関連付けるのは後世の創作だと島田裕巳は主張している。
越中国立山に文政10年から12年(1827年から1829年)頃現れたとされる存在は、「件」を唐名、「クタベ」を和名とする摺物がある。くたべ、クダベ、クタヘ、どだく、ぐだべなどの表記の揺れがあり、屋代弘賢の『弘賢随筆』は「当亥年」とのみ記す立山のくたべ出現談を収め、年代を特定できるくたべ系の最古史料とされる。
姿かたち
件は人の顔と牛の体をもつ姿で記される。最古級の手記『密局日乗』文政2年(1819年)の条にもすでに「人面牛身」とあり、天保7年(1836年)付の瓦版は丹後国「倉橋山」に現れた獣を同じ姿の「件」として描いた。この瓦版から書写したとされる絵と文が、毛利家文庫の『止可雑記』に残る。
一方、文政10年(1827年)頃に越中国立山へ現れたとされるくたべ系は、件の同種・変種とされながら図に特異点が多い。屋代弘賢の『弘賢随筆』は当亥年の挿絵と文を収め、年代を特定できるくたべ系の最古史料とされる。くたべ系の絵には、蹄ではなく手足に鋭い爪が伸びるもの、髪の長い女性のような顔や丸みのある体を特徴とするものがあり、牛らしさが見られないと評される例もある。『虚実無尽蔵』には禿頭で疲れた医僧のような容姿が記され、摺物には背や胴体に目を描く例も挙げられる。
慶応3年(1867年)作と考証される錦絵『件獣之写真』も件の姿を図に残す。人面牛身の型は文政期から慶応期まで一貫し、後の定型像もこの線上にある。
性質と弱点
件は、江戸時代後期に出回った予言獣と同様、疫病の流行を告げるとともに厄除招福の方法を示す。天保7年(1836年)の瓦版を写したとされる『止可雑記』(毛利家文庫、山口県文書館蔵)によれば、件の絵を貼っておけば家内は繁昌し、疫病から逃れ、一切の災いを逃れて大豊年となるという。
『密局日乗』文政2年5月13日条(1819年)は、防州上ノ関の民家の牛から生まれた子が人語をあやつり、異形を理由に屠殺してはならないと諭し、7年の豊作ののち8年目に兵乱が起こると予言したと記す。慶応3年(1867年)4月の瓦版『件獣之写真』では、出雲の田舎で牛の子として生まれた件が、当年の大豊作と初秋からの悪疫を予言し、3日で死んだとされる。
越中国立山に文政10年(1827年)ごろ現れたというくたべ系は、『弘賢随筆』などに記され、件と同種・変種とされるが、疫病の災厄のみを告げ、豊作の吉兆は予言しない。くたべ系の摺物はおおむね、4、5年のうちに名も知れぬ病が流行り苦しめるが、その絵図を一度見れば災厄を免れると伝える。『虚実無尽蔵』は、立山に現れたくたべが、厄を避けるには肖像を模して貼れと言い残したとする。
伝承・逸話
牛の子の予言: 『密局日乗』文政2年5月13日条(西暦1819年7月4日)によれば、防州上ノ関(現・山口県上関町)の民家の牛から人面牛身の子牛が生まれた。その子は人語をあやつり、みずからを「件」と名づけよと指示し、異形を理由に屠殺してはならないと諭したうえで、7年の豊作ののち8年目に兵乱が起こると予言した。
倉橋山の出現: 天保7年(1836年)12月、丹後国与謝郡の「倉橋山」(現・京都府宮津市の倉梯山とされる)に人面牛身の獣が現れた、と当時の瓦版は触れまわった。この件は先数年連続の豊作を告げ、絵図を張り置けば家内は繁盛し厄も避けられると教示したという。毛利家文庫『止可雑記』(山口県文書館蔵)には、この瓦版から書写したとされる絵と文が残る。
立山のくたべ: 文政10年から12年(1827-1829年)頃、越中国(現・富山県)立山で薬種の採掘者が遭遇したとする「くたべ」の話が残る。屋代弘賢の雑稿から編んだ『弘賢随筆』は挿絵と文を収め、「当亥年」とだけ記すが、年代を特定できるくたべ系の最古史料とされる。筋は、これから数年間疫病が流行し多くの犠牲者が出るが、姿を描き写した絵図を見れば難を逃れる、というものである。
三日で死ぬ牛の子: 慶応3年(1867年)4月の瓦版『件獣之写真』は、出雲の田舎で件が生まれたと伝える。生まれた件は「今年から大豊作になるが初秋頃より悪疫が流行る」と予言し、3日で死んだという。
見世物の剥製: 小泉八雲は『知られぬ日本の面影』に、明治25年(1892年)、旅の見世物師が島根県美保関へ件の剥製を運ぼうとしたところ、不浄のため神罰が下り、船は突風で美保関に上陸できなくなった、という風説を記している。
起源と解釈
白澤図像説: 佐藤健二は「クダンの誕生」(1995年)などで、江戸期に旅行の厄除けとして配られた白澤の図絵を引用したものが件であるという起源説を示した。戸隠山や八海山では参詣者に「白沢避怪図」を配る慣習があり、笹方政紀は、白澤が後世に人面獣身で描かれるようになり、見た目が件と紛らわしくなったと解説する。
少数説: 水木しげるは『弘賢随筆』(屋代弘賢、1827年頃)に残る越中国立山のクタベを白澤と同一と論じ、摺物の背に二つの目がある点に白澤図像の影響をみた。細木ひとみは、白澤を漢方薬の守護神として富山の売薬と同一視した点を否定し、立山の現地でクタベ伝説が発祥したふしはなく、富山以外で「立山の薬種」の風評にあやかったのではないかとしている。
随筆『道聴塗説』は、クダベが当時流行の神社姫に似せて創作されたと主張する。文政2年(1819年)の神社姫は除厄の方法まで説き、後の件の例と共通する。同年の『密局日乗』に記された件は、予言の内容はわかるが、除厄法を伝授したとされるかまでは不詳である。人面を彷彿させる奇形の仔牛が疾患によって生まれることは知られ、件の伝説に発展したとする推察もある。
史料の変遷
天保の瓦版は宝永2年(1705年)12月の出現を回顧して記すが、現存する早い史料は文政2年(1819年)の『密局日乗』で、防州上ノ関の出生を当日条に残す。越中国立山のくたべは屋代弘賢『弘賢随筆』に挿絵と文があり、当亥年(1827年)の書写とみられ、くたべ系で年代を特定できる最古とされる。天保7年(1836年)の瓦版系統は毛利家文庫『止可雑記』(山口県文書館蔵)に書写が残り、慶応3年(1867年)4月の『件獣之写真』は出雲の田舎での出生を報じた。
明治期は剥製の見世物が記録の場となる。小泉八雲『知られぬ日本の面影』は明治25年(1892年)、見世物師が島根県美保関へ剥製を運ぼうとして上陸できなかった風説を記す。
昭和に入ると絵図の御利益譚は退き、戦争や災害の予言を伝える噂の採取が続く。昭和7年(1932年)夏、桜田勝徳は西彼杵半島の面高村で、平戸に生まれ佐世保を経て広がった噂を採取し、「江島平島記」(『未刊採訪記』所収)として発表した。村上健司『妖怪事典』(2000年)は、予言獣としての件と関連する呼称・図像を事典の項にまとめている。
ゆかりの地
倉梯山(京都府宮津市): 天橋立の以西、標高91mの山である。『止可雑記』(毛利家文庫、山口県文書館蔵)が写した天保7年(1836年)の瓦版は、出現地を丹後国与謝郡「倉橋山」とし、この山が合致するとされる。写本の絵と文は同館にあり、展示もされている。件の碑や社は伝わらない。
上関(山口県上関町): 『密局日乗』文政2年5月13日条(1819年)が出生の場とした防州上ノ関にあたる。訪ねられるのは町域であり、件の碑は伝わらない。
立山(富山県): 屋代弘賢『弘賢随筆』(1827年)がくたべ出現の場とした越中国立山である。件・くたべの碑や社は伝わらない。
出雲・美保関(島根県): 慶応3年(1867年)の瓦版『件獣之写真』は出生の場を「出雲の田舎」と記す。小泉八雲『知られぬ日本の面影』は、明治25年(1892年)に旅の見世物師が件の剥製を美保関へ持ち込もうとして上陸できなかったとする風説を残す。いずれも具体の碑は伝わらない。
現代の受容
文学:内田百閒は初稿1921年の短編「件」で、件は生れて三日にして死し、その間に人間の言葉で未来の凶福を予言するもの、と設定した。小川未明は1919年に短編「牛女」を発表し、小松左京『くだんのはは』(1968年)も百閒の小説や件の類の噂に取材して書かれたと考えられている。
牛女と見世物:第二次世界大戦末期から戦後復興期にかけ、人面牛身の件とは逆の、牛面人身で和服を着た女の噂が流れた。小松の小説はこの都市伝説の伝搬に寄与したとされる。明治から昭和初期には件の剥製と称するものが見世物小屋で公開され、小泉八雲は『知られぬ日本の面影』にその風説を記す。木原浩勝が2004年に群馬県の所有者から譲り受けた剥製は、興行師であった元所有者の父が「牛人間」と称して見せ、紙芝居もおこなっていたという。
像の分岐:村上健司『妖怪事典』(2000年)が項とするのは人面牛身の予言獣である。木原は、件は牛から生まれ人語を話すが、牛女は人間から生まれ知性を認め難い、として両者を区別すべきだと主張する。百閒の設定、牛女の噂、見世物の「牛人間」は小説・都市伝説・興行の像であり、漫画・アニメ・遊戯・広告の固有名と年は依拠できる文献には示されていない。
出典・参考文献References
- 『密局日乗』 1819文政2年5月13日条。防州上ノ関の民家の牛から生まれた人面牛身の子が自らを件と名づけ、屠殺を戒め、7年の豊作と8年目の兵乱を予言したと記す。
- 『弘賢随筆』 屋代弘賢 1827越中国立山のくたべ出現談の挿絵と文を収める。当亥年とだけあるが、年代を特定できるくたべ系の最古史料とされる。
- 『止可雑記』毛利家文庫(山口県文書館蔵)。天保7年の瓦版から書写したとされる件の絵と文を残し、展示もされている。
- 『件獣之写真』 1867慶応3年4月の瓦版。出雲の田舎で牛の子として生まれ、豊作と初秋からの悪疫を予言して3日で死んだと記す。
- 『知られぬ日本の面影』 小泉八雲 1894明治25年、旅の見世物師が島根県美保関へ件の剥製を運ぼうとして神罰で上陸できなかったという風説を記す。
- 『件』 内田百閒 1921短編小説(初稿1921年)。件は生まれて三日で死に、その間に人語で未来の凶福を予言する、と設定する。
- 『クダンの誕生』 佐藤健二 1995江戸期に旅行の厄除けとして配られた白澤の図像を引用したものが件である、という起源説を示す。
- 『妖怪事典』 村上健司(毎日新聞社) 2000「件」の項。予言獣としての件と関連する呼称・図像を事典形式でまとめる。
ランキング順位Rankings
ゆかりの地Places
- 上関(山口県)『密局日乗』文政2年条で、民家の牛から人面牛身の件が生まれたと記される地(防州上ノ関)。
- 立山(富山県)文政10年(1827年)頃、くたべが薬種の採掘者の前に現れ、絵図を厄除けと教えたとされる山。
- 倉梯山(京都府宮津市)天保7年(1836年)の瓦版が人面牛身の件の出現地とした丹後国与謝郡「倉橋山」に比定される山。
- 出雲(島根県)慶応3年(1867年)の瓦版『件獣之写真』が、田舎の牛から件が生まれ三日で死んだと記す地。
- 美保関(島根県)小泉八雲『知られぬ日本の面影』に、明治25年に件の剥製を運ぶ見世物船が上陸できなかったとする風説が残る港。
- 五島列島(長崎県)明治42年の『名古屋新聞』が、約10年前に人面の子牛が生まれ日露戦争を予言して死に、剥製が長崎市の八尋博物館に陳列されたと報じた地。
特集Collections
カードCards
画風ちがいのカード。保存してシェアできる。
よくある質問FAQ
件とは何ですか?
件(くだん)は、牛の体に人の顔を持つとされる日本の予言獣です。生まれると予言を残し、すぐに死ぬと伝えられます。
件はどこに現れますか?
主に西日本、特に九州地方で伝承されています。
件は何を予言しますか?
疫病の流行や戦争など、凶事を予言するとされます。
「件の如し」と件は関係がありますか?
天保の瓦版には、件は正直な獣だから証文の末尾に「件の如し」と書く、という説明がある。定型句「如件」はすでに『枕草子』に見え、怪物との結びつきは俗説とされる。
くたべと件はどう違いますか?
文政10年(1827年)頃、越中国立山に現れたくたべは件の異名・変種とされる。摺物では件を唐名、クタベを和名とし、絵に女面や爪、胴の目など差がある。予言は疫病のみで豊作は言わない。
件はどこに現れましたか?
特定の一地方に限らない。『密局日乗』は防州上ノ関(現・山口県上関町)、天保の瓦版は丹後国倉橋山(現・京都府宮津市)、くたべは越中国立山、慶応の瓦版は出雲の田舎とする。
最終更新: · 編集: 百鬼編集室

