大百足

おおむかでomukade

大百足は巨大な蜈蚣の妖怪で、甲斐国から信濃国にかけての山中に現れ、人や家畜を襲うとされる。

イメージ画(当サイト制作)
分類
動物の怪
分布
近江国を中心
出没
近江の山
弱点・対処
人唾をつけた矢
主な初期記録
『太平記』十五巻

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解説Overview

大百足(おおむかで)は、近江国の山に棲む巨大な蜈蚣である。琵琶湖の湖底に住む竜族を苦しめ、俵藤太(藤原秀郷)が瀬田の唐橋で退治したという説話で知られる。退治譚の初出は『太平記』十五巻とされる。室町時代に『俵藤太絵巻』がまとまり、御伽草子系の『俵藤太物語』で広く伝わった。

『太平記』は棲み処を比良山とし、襲来を松明が二、三千本連なって動くようだと記す。『俵藤太物語』では三上山から現れ、一の矢・二の矢は跳ね返り、唾をつけた三本目が眉間を射抜く。絵巻は三上山を八巻きしたとし、『近江輿地志略』(1723)は七巻半とする。下野の日光・赤城の神戦や福島市飯坂温泉にも類似の退治譚がある。

名称と語源

大百足(おおむかで)は巨大な蜈蚣を指す呼び名である。村上健司『日本妖怪大事典』は「大百足」の項を立て、俵藤太の百足退治を収める。御伽草子系の『俵藤太物語』は三上山の害敵を「大百足」と記し、『太平記』十五巻は「百足」と記す。大を冠するか否かが両本の表記のゆれである。漢字「蜈蚣」は、伊勢神宮に秀郷所持と伝わる刀の名「蜈蚣切」(蜈蚣切丸とも)に見える。

鎌倉初期(1200年頃)成立の源顕兼『古事談』には、粟津冠者が宿敵の大蛇を射止める話があり、百足退治の原話と見る説がある。後の『太平記』十五巻と『俵藤太物語』では害敵を百足・大百足と呼び、原話と見る説での大蛇とは名が異なる。語源について、若尾五雄は百足を鉄の鉱脈の表象とし、「射る」と「鋳る」が通じると説く。

下野国宇都宮の類似説話では、俵藤太が討った相手を「悪鬼・百目鬼」と伝える。『俵藤太物語』の大百足が蜈蚣を指す獣型の名であるのに対し、宇都宮では悪鬼の名が立つ。

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姿かたち

『太平記』十五巻は、百足の棲み処を近江の比良山とし、襲来を松明が二、三千本も連なって動いているかのようだと形容する。脚の数や体色、頭の形といった細目はなく、山を下りる光の列として捉えられている。

伝承では近江の三上山を八巻きしたともいい、寒川辰清『近江輿地志略』(1723年)は長さを三上山を七巻半すると記す。室町時代に成った『俵藤太絵巻』と御伽草子系の絵巻は、この山を巻く大百足を描き、地誌の段階で山を基準にした長大な蜈蚣の像が定点を得た。棲み処の山は比良山と三上山に分かれ、光の列と山を巻く蜈蚣という二つの見え方が並ぶ。

御伽草子系の『俵藤太物語』では、三上山の山上から下りてくる百足に眉間がある。一の矢と二の矢は跳ね返され、射止めたのちは「ずたずたに切り捨て」たとあり、矢を弾く体と切断しうる蜈蚣の胴とが姿の輪郭になる。村上健司『日本妖怪大事典』(2005年)の「大百足」項も、この巨大蜈蚣の像を収める。

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性質と弱点

大百足は近江の山に拠り、琵琶湖の竜族を苦しめる害敵として語られる。『俵藤太物語』によれば、湖底に住む竜女の一族が三上山に棲みついた大百足に苦しめられ、瀬田の唐橋で勇者を捜していた。藤太が橋で待ちかまえると、大百足は三上山から出現し、山上から唐橋のほうへ向かってきた。

人との対峙では弓矢が用いられるが、通常の矢は通らない。一の矢と二の矢は跳ね返され、三本目に降魔の力があるという唾をつけて射ると、眉間を射抜いたとされる。御伽草子系の同物語は、放つ際に八幡神へ祈念し、射止めたのち百足をずたずたに切り捨てたと記す。

『太平記』十五巻では、藤太が竜宮へ連れられたのちに百足が出現し、そこで退治に至る。礼として『俵藤太物語』は、無尽の絹・俵・鍋を賜ったのち金札の鎧や太刀を授け、赤銅の釣鐘も追贈されて三井寺(園城寺)へ奉納されたと記す。褒美の太刀は「遅来矢」と号され、赤堀家重代の宝刀となったと『和漢三才図会』および『東海道名所図会』は記す。鎧については『本朝軍器考』が竜宮の贈物として「平石」と「室丸」の二領を挙げる。

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伝承・逸話

瀬田唐橋の百足退治:『俵藤太物語』では、近江国琵琶湖のそばの瀬田の唐橋に大蛇が横たわり人が渡らなくなったところへ、俵藤太が通りかかる。藤太は動ぜず大蛇を踏みつけて渡ると、相手は人の姿となり、湖底の竜女として三上山の大百足退治を乞うた。藤太が唐橋で待ちかまえていると、三上山から大百足が山上より向かってきた。強弓の一の矢、二の矢は跳ね返されて通用せず、三本目の矢に唾をつけて射ると眉間を射抜いた。御伽草子ではこのとき八幡神に祈念し、射止めたのち百足をずたずたに切り捨てたと記す。竜女から無尽の絹・俵・鍋を賜ったのち竜宮へ連れていかれ、金札(こがねざね)の鎧や太刀を授かり、赤銅の釣鐘も追贈された。鐘は三井寺(園城寺)に奉納された。

竜宮先行の退治:『太平記』十五巻では、大蛇は小男の姿でまみえ、早々に藤太を竜宮へ連れていく。百足が出現するのはそののちで、藤太は竜宮にあってこれを退治する。

粟津冠者の龍宮:源顕兼『古事談』は鎌倉初期、1200年頃の成立とされ、粟津冠者という剛の者の話を載せる。鐘を鋳る鉄を求めて出雲に向かうと暴風に見舞われ、漕ぎつけた先で謎の小童に拾われて海底の龍宮へ連れていかれる。宿敵を射殺してくれと嘆願され、敵の大蛇が眷属をひきつれて現れたところを射止めた。褒美に得た鐘はめぐりめぐって三井寺に収まった。

赤城山の神の大百足:『俵藤太物語』が近江国の三上山で語る筋とは別に、秀郷の本拠であった下野国には日光山と赤城山の神戦の話がある。赤城山の神が大百足に姿を変え、猿丸大夫、あるいは猟師の磐次・磐三郎がこれを討ったと伝え、この折の戦場から日光戦場ヶ原の名が残るという。下野国宇都宮にも類似の話があり、俵藤太が悪鬼・百目鬼を討ったとされる。

飯坂の藤太湯:『俵藤太物語』に登場する俵藤太が、福島市の飯坂温泉では女に姿を変えた大蛇の依頼を受けて大百足を退治したと伝える。退治ののち、佐波来湯の北隣りに新たに沸いた泉で身を洗い清めて癒した。その泉を藤太湯と呼ぶ。

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起源と解釈

原話: 鎌倉初期(1200年頃)成立の源顕兼『古事談』は、粟津冠者(あわづかんじゃ)が鐘を鋳る鉄を求めて出雲へ向かい、暴風ののち小童に拾われて海底の龍宮へ連れていかれ、宿敵の大蛇とその眷属を射止め、得た鐘が三井寺に収まった、と記す。俵藤太の百足退治と話型が近く、これを原話とみる説がある。

鉱脈の考察: 若尾五雄は、百足を鉄の鉱脈の表象とみなし、「射る」ことが「鋳る」に通じると考察した。『古事談』で粟津冠者が鋳鐘の鉄を求めて旅立つ筋は、この読みと重なる。鉱脈説は若尾の個別の考察であり、話型の継承を示す見方とは別である。御伽草子系『俵藤太物語』では敵が三上山の大百足へ差し替わるが、龍宮と三井寺の鐘という骨組みは『古事談』と共通する。

下野伝承との接合: 秀郷の本拠であった下野国には、日光山と赤城山の神戦のなかで大百足に姿を変えた赤城山の神を猿丸大夫、または猟師の磐次・磐三郎が討つ話がある。『太平記』十五巻の近江・比良山を舞台とする百足退治とは土地を異にし、この神戦譚が秀郷へ結びつけられたと考えられる。

出典: 〔1〕〔2〕〔3〕

史料の変遷

俵藤太の百足退治の説話の初出は『太平記』十五巻とされる。ただし『俵藤太物語』の古絵巻のほうが早期に成立した可能性もあるという意見もある。室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、御伽草子系の絵巻や版本所収の「俵藤太物語」に伝わって、説話はさらに広まった。

御伽草子と『太平記』とでは、助けを求める者が現れる姿と、百足と出会う順序が分かれる。御伽草子では大蛇が女性の姿に化身し、退治ののちに藤太を竜宮へ招く。『太平記』では大蛇が小男の姿でまみえ、早々に藤太を竜宮へ連れていき、そこで百足が出現する。

時代が下ると褒美の品目は十種に増える。太刀を「遅来矢(ちくし)」と号し赤堀家重代の宝刀となったことは、寺島良安『和漢三才図会』(1712年)と秋里籬島『東海道名所図会』(1797年)にみえる。新井白石『本朝軍器考』(1709年)は竜宮の贈物として「平石(ひらいし)」と「室丸(むろまる)」の二領を挙げる。寒川辰清『近江輿地志略』(1723年)は、百足の長さを三上山を七巻半すると記す。

村上健司『日本妖怪大事典』(2005年)は「大百足」の項に俵藤太の百足退治を収める。

出典: 〔1〕〔2〕〔4〕〔5〕〔6〕〔7〕

ゆかりの地

瀬田唐橋:滋賀県大津市の瀬田唐橋に、俵藤太こと藤原秀郷の銅像がある。御伽草子系『俵藤太物語』の舞台であり、同市の三井寺(園城寺)には藤太が赤銅の釣鐘を奉納したと伝える。

三上山:近江の三上山は、同物語が大百足の棲み処とした山である。寒川辰清『近江輿地志略』(1723年)は、その長さを三上山を七巻半すると記す。

地方の伝承地:『俵藤太物語』が近江を舞台とする話のほか、福島市の飯坂温泉には佐波来湯の北隣りの藤太湯の伝承が残り、下野国(栃木県)の日光戦場ヶ原は、日光山と赤城山の神戦で大百足に姿を変えた赤城山の神が討たれた場の名が残ると伝え、秀郷へ結びつけられたとされる。滋賀県竹生島の宝厳寺には秀郷奉納と伝わる毛抜形太刀があり、伊勢神宮にも蜈蚣切など二振りが奉納されている。

出典: 〔2〕〔4〕

現代の受容

2005年刊の村上健司『日本妖怪大事典』は「大百足」を妖怪事典の一条として収録し、俵藤太の百足退治を含む。ここでは蜈蚣が独立した種目として切り出されている。

中世の本文は百足に人のような性格や台詞を与えない。『太平記』十五巻も御伽草子系『俵藤太物語』も、百足を退治の対象として置く。対話と動機を持つのは助けを求める側と、弓を取る俵藤太の側である。

映像と贈位は武将を前景にする。1976年のNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』では露口茂が藤原秀郷を演じ、2020年のテレビ朝日『陰陽師』では国広富之が同役を演じた。明治16年(1883年)8月6日に贈正三位、大正7年(1918年)に贈正二位を追陞された。御伽草子系『俵藤太物語』の下巻も平将門討伐を描く。

出典: 〔1〕〔2〕

出典・参考文献References

  1. 『太平記』
    十五巻。俵藤太の百足退治の初出とされる。棲み処を比良山とし、襲来を松明二、三千本が連なるようだと記す。大蛇は小男の姿で藤太を先に竜宮へ連れていく。
  2. 『俵藤太物語』
    御伽草子系。瀬田の唐橋の竜女が三上山の大百足退治を乞い、唾をつけた矢が眉間を射抜く。八幡神への祈念とずたずたに切り捨てた記述、下巻の平将門討伐を載せる。
  3. 『古事談』 源顕兼 1200
    鎌倉初期成立。粟津冠者が龍宮で宿敵の大蛇を射止め、得た鐘が三井寺に収まった話を載せる。百足退治の原話と見る説がある。
  4. 『近江輿地志略』 寒川辰清 1723
    大百足の長さを、三上山を七巻半すると記す。
  5. 『和漢三才図会』 寺島良安 1712
    百足退治の褒美の太刀を「遅来矢(ちくし)」と号し、赤堀家重代の宝刀となったと記す。
  6. 『東海道名所図会』 秋里籬島 1797
    褒美の太刀「遅来矢」が赤堀家の宝刀となったと記す。
  7. 『本朝軍器考』 新井白石 1709
    竜宮の贈物として「平石(ひらいし)」と「室丸(むろまる)」の二領の鎧を挙げる。

ランキング順位Rankings

ゆかりの地Places

  • 瀬田唐橋(滋賀県大津市)大蛇が横たわり藤太が踏みつけて渡った橋。銅像がある。
  • 三上山(滋賀県)『俵藤太物語』で大百足の棲み処。絵巻は八巻き、『近江輿地志略』は七巻半とする。
  • 比良山(滋賀県)『太平記』十五巻が大百足の棲み処とする山。
  • 三井寺(滋賀県大津市)竜神から得た赤銅の釣鐘を奉納した寺。園城寺。
  • 飯坂温泉(福島県)女に化けた大蛇の依頼で大百足を退治し、藤太湯で洗い清めたという。
  • 日光戦場ヶ原(栃木県)日光山と赤城山の神戦で、大百足に姿を変えた赤城の神が討たれた戦場と伝える。

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よくある質問FAQ

大百足とは何ですか?

大百足は巨大な蜈蚣の妖怪で、主に甲斐国と信濃国の山岳地帯に現れるとされます。

大百足はどこに現れますか?

主に甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)の国境の山々に現れると伝えられています。

大百足の弱点は何ですか?

伝承では特定の弱点は語られていませんが、武田信玄に退治されたという話があります。

大百足とは何ですか

大百足は近江国の山に棲む巨大な蜈蚣です。琵琶湖の竜族を苦しめ、俵藤太(藤原秀郷)が瀬田の唐橋で退治したという説話で知られます。

大百足はどこに現れますか

御伽草子系の『俵藤太物語』では近江国の三上山、『太平記』十五巻では比良山を棲み処とします。瀬田の唐橋から山上へ向かう姿として語られます。

大百足の弱点は何ですか

通常の矢は跳ね返ります。『俵藤太物語』では唾をつけた三本目の矢が眉間を射抜き、御伽草子では八幡神に祈念したうえずたずたに切り捨てたとあります。

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最終更新: · 編集: 百鬼編集室