土蜘蛛
古代の土着豪族への蔑称と、山中に潜む大蜘蛛の怪が重なった妖怪。

- 分類
- 山の怪
- 分布
- 九州から東北
- 出没
- 山野の石窟
- 弱点・対処
- 刀剣
- 主な初期記録
- 『古事記』(712)
解説Overview
土蜘蛛(土雲とも)は、上古の日本でヤマト王権に恭順しなかった土豪を示す名称である。各地にあり単一の勢力ではなく、国栖・八束脛・大蜘蛛とも呼ばれた。史料上の登場は神武天皇の時代以後で、『古事記』神武紀と『日本書紀』神武・景行・神功紀に「都知久母」「土蜘蛛」と見え、常陸・越後・豊後・肥前などの風土記にも伝説として語られる。
記紀・風土記では、山野の石窟や土窟に住み朝命に従わず誅滅される存在として、身短く手足が長い、侏儒に似るなど異形に描かれることが多い。名は土隠(つちごもり)に由来すると考えられ、生物の蜘蛛とは本来無関係である。近世以後は蜘蛛のすがたの妖怪と広くみなされ、『平家物語』剣巻の山蜘蛛、能『土蜘蛛』、14世紀ごろの『土蜘蛛草紙』を経て源頼光が討つ大蜘蛛として定着した。これらの物語と古代の土蜘蛛伝説との直接の参照関係は薄い。
名称と語源
土蜘蛛は土雲とも記し、上古の日本においてヤマト王権・大王に恭順しなかった土豪を示す名称である。各地に存在しており、単一の勢力の名ではない。『古事記』は神武紀に都知久母(つちぐも)の名を載せ、忍坂(現桜井市)の人々を土雲とも記す。『日本書紀』の神武紀・景行紀・神功紀には土蜘蛛の表記が見える。
『常陸国風土記』は国栖(くず)と都知久母とを同じ意味であると記す。同様の存在は八握脛、八束脛(やつかはぎ)、大蜘蛛(おおぐも)とも呼ばれる。つかは長さを示す単位であり、八束脛はすねが長いという意味である。
つちぐもという名称は土隠(つちごもり)に由来すると考えられており、該当する土豪の一族などが横穴のような住居で暮らした様子、穴に籠る様子から付けられたとする説がある。『日本書紀』をはじめ史料では蜘蛛の字が宛てられるが、国語学の観点からは体形とは無縁であり、生物の蜘蛛とは本来直接の関係はない。熱帯に棲むオオツチグモ科の和名はつちぐもに因むが、その命名は近代に入ってからである。
姿かたち
『日本書紀』神武紀は土蜘蛛を「身短くして手足長し、侏儒(ひきひと)と相にたり」と記す。高尾張邑にいた土蜘蛛も、体が侏儒のように小さく手足は長かったと描写される。『越後国風土記』の逸文は「脛の長さは八掬、力多く太だ強し」とし、すねの長さを強調する。
大和国では他国と異なり有尾人として描かれる。『日本書紀』は吉野首らの始祖を「光りて尾あり」、吉野の国樔らの始祖を「尾ありて磐石をおしわけてきたれり」と述べ、『古事記』は忍坂の人々を「尾の生えた土雲」と記す。
近世以後は蜘蛛のすがたの妖怪であると広くみなされるようになった。『平家物語』の「剣巻」では山蜘蛛と表記され、身長7尺(約2.1メートル)の怪僧と全長4尺(約1.2メートル)の巨大な山蜘蛛が同一の怪異として現れる。14世紀ごろの絵巻『土蜘蛛草紙』は本体を20丈(約60メートル)ほどの巨大な山蜘蛛として描く。浄瑠璃や歌舞伎でも蜘蛛のすがたが用いられたが、これらは物語や能を典拠としており、『古事記』『日本書紀』や風土記の古代の記述との直接的な参照関係は希薄である。
性質と弱点
ヤマト王権側の記録では、土蜘蛛は「狼の性、梟の情」を持ち強暴であり、山野に石窟・土窟・堡塁を築いて住み、朝命に従わず誅滅される存在として記される。『日本書紀』景行天皇12年(82年)冬10月、碩田国速見村では鼠の石窟に白と青が住み、直入郡禰疑野には打猿・八田・国摩侶がおり、五人は強く仲間の衆も多く天皇の命令に従わないと速津媛が述べた。
恭順すれば許された例もある。『肥前国風土記』は、景行天皇が松浦郡志式島へ行幸した際(72年)、小近島の大耳と大近島の垂耳が捕らわれて殺されかけ、平伏して海産物を御贄に差し出し許しを請うたと記す。彼杵郡速来の速来津姫は恭順して白玉・石上神木蓮子玉・美しき玉を献じた。杵島郡嬢子山の八十女は山に居構えて抵抗し全滅させられたとある。
対処としては、『日本書紀』神武即位前の己未年に高尾張邑の土蜘蛛を葛の網で討ったと伝える。『平家物語』「剣巻」では、源頼光が瘧の床で怪僧に縄を放たれて絡めとられようとしたところ膝丸で斬り、北野神社裏手の塚の山蜘蛛を鉄串に刺して川原に晒すと、病はすぐに回復した。『土蜘蛛草紙』は洛外北山蓮台野の山蜘蛛の腹から死人の首千九百九十個が出たと記す。京都市北区の上品蓮台寺では、塚そばの木を伐ろうとした者が病死し、上京区一条通の塚から出た蜘蛛灯籠を受けた者は家運が傾いたと恐れられた。
伝承・逸話
葛網の討伐: 『日本書紀』によれば、神武天皇は即位以前の己未の年、大和国で恭順しなかった波哆丘岬の新城戸畔、和珥坂下の居勢祝、臍見長柄丘岬の猪祝をそれぞれ討たせた。高尾張邑にいた土蜘蛛は葛を編んだ網で討たれ、そのことに因んで地名を葛城と改めたと記されている。
志式島の平伏: 『肥前国風土記』は、景行天皇が松浦郡の志式島(いまの平戸南部)へ行幸したとき(72年)、海中の島から煙が昇るのを見て探らせ、小近島に大耳、大近島に垂耳という土蜘蛛が棲むと知ったと記す。捕らえ殺そうとしたところ、大耳らは地面に額を下げて平伏し、以後は天皇へ御贄を造り奉ると海産物を差し出して許しを請うた。
嬢子山の八十女: 同書の杵島郡嬢子山では、八十女が山に居構えて大和朝廷に抵抗し、全滅させられたとある。八十は大勢の意とされ、多くの女性首長層が反抗して最期を遂げたと解釈されている。所在を大和側に伝えたのも地元の女性首長であり、手柄をあげたとして生き残り、抵抗した者と味方した者とが分かれていたことを伝えている。
剣巻の山蜘蛛: 『平家物語』の「剣巻」では山蜘蛛と記される。源頼光が瘧の床にあったところ、身長7尺(約2.1メートル)の怪僧が現れ、縄を放って絡めとろうとした。頼光は病床のまま名刀・膝丸で斬りつけ、僧は逃げ去った。翌日、四天王を率いて血痕を追い、北野神社裏手の塚で全長4尺(約1.2メートル)の山蜘蛛を捕え、鉄串に刺して川原に晒した。頼光の病はほどなく癒え、膝丸は以後蜘蛛切りと呼ばれた。能の『土蜘蛛』では、土蜘蛛は四天王に対し「葛城山に年を経し土蜘蛛の精魂なり」と語る。
土蜘蛛草紙の大蜘蛛: 14世紀ごろの絵巻『土蜘蛛草紙』では、頼光が家来の渡辺綱を連れ、京都の洛外北山の蓮台野へ赴いて空を飛ぶ髑髏に遭う。不審に思った一行がそれを追うと古びた屋敷に至り、異形の者が現れて苦しめた。夜明けごろ美女が目くらましを仕掛けたが、頼光が斬ると女の姿は消え、白い血痕が残った。辿ると山奥の洞窟に20丈(約60メートル)ほどの山蜘蛛がおり、すべての怪異の正体であった。戦いの末に首を刎ねると、腹から1990個の死人の首が出、脇腹から無数の子グモが飛び、そこを探るとさらに約20個の小さな髑髏があったという。
起源と解釈
通説: 土蜘蛛をヤマト王権に恭順しなかった土着豪族への朝廷側の蔑称とみるのが、通説である。『常陸国風土記』は国栖(くず)と都知久母(つちぐも)とを同じ意味であると記し、恭順を示さない在地の勢力を指す語として読まれている。史料の上での登場は神武天皇の時代以後であり、『古事記』『日本書紀』が記す神話の時代には現れない。
研究史: 津田左右吉は、各国風土記の土蜘蛛が熊襲や蝦夷と異なり、集団としてではなく個人名として登場する点に特徴があると指摘した。『肥前国風土記』の大耳・垂耳・八十女・速来津姫、『豊後国風土記』の五馬媛・打猴・頸猴・八田・國摩侶など、首長名と見られる名は45にのぼり、うち名に「女」(め)や「姫・媛」(ひめ)を含む14名は女性首長であろうと見られている。
推論: 瀧音能之は、『肥前国風土記』佐嘉郡の土蜘蛛が荒ぶる神を鎮めた例など、九州の土蜘蛛に巫や農耕的呪術の特徴が見られることから、これらの個人はシャーマニズムを権力の背景とした地域の首長だったと推論している。上古において朝廷に恭順しない存在は鬼や土蜘蛛と呼ばれたとする見方のうえで、これらの表記は蔑視と畏怖が重なった朝廷側の他者表象として解釈されている。
史料の変遷
史料のうえでの登場は神武天皇の時代以後であり、『古事記』『日本書紀』が記す神話の時代の叙述には見えない。名は『古事記』(712)の神武紀と『日本書紀』(720)の神武・景行・神功の3紀に見え、陸奥・越後・常陸・摂津・豊後・肥前などの風土記では「古老曰く」「昔」として伝説の形で記される。『丹後国風土記残缺』にも土蜘蛛の記事がある。
人名の挙がる記事は常陸国7か所、豊後国6か所、肥前国12か所、陸奥国2か所、日向国1か所に散在し、首長名と見られる名は45、うち「女」「姫・媛」を含むものが14ある。『肥前国風土記』に女性首長の記録がもっとも多い。津田左右吉は、各国風土記の土蜘蛛が熊襲や蝦夷と異なり集団ではなく個人名で登場する点を指摘した。
中世以後、土蜘蛛は物語や戯曲に取り上げられ、蜘蛛のすがたの妖怪として定着していった。『平家物語』の「剣巻」は「山蜘蛛」と記し、能の五番目物『土蜘蛛』の典拠となった。14世紀ごろの絵巻『土蜘蛛草紙』は巨大な蜘蛛の姿で描いている。
浄瑠璃や歌舞伎が「前太平記」の世界を採るとこの物語が題材として引かれ、江戸時代以後、戯曲・舞踊作品に土蜘蛛が登場した。蜘蛛の妖術の手法は『善知安方忠義伝』の山蜘や『白縫譚』の小女郎蜘蛛へ影響したとされる。後世の作品と古代の土蜘蛛の記事との直接の参照関係は希薄であるとされる。
ゆかりの地
奈良県の葛城山にある葛城一言主神社には土蜘蛛塚があり、神武天皇が土蜘蛛を捕え、頭・胴・足に分けて埋めた跡と伝える。『日本書紀』神武紀の土蜘蛛と結びつけて語られる。
京都市北区の上品蓮台寺には頼光を祀る源頼光朝臣塚があり、土蜘蛛の巣だったとされる。伐採を試みた者が病死した話が残る。上京区一条通の塚から出た蜘蛛灯籠は、家運が傾くと恐れられ、東向観音寺(上京区観音寺門前町)に奉納されている。『平家物語』「剣巻」は北野神社裏手の塚に四尺の山蜘蛛がいたと記し、『土蜘蛛草紙』は洛外北山の蓮台野を舞台とする。
『丹後国風土記残缺』は陸耳御笠が與佐大山(いまの大江山と伝える)へ逃れたと記す。『肥前国風土記』は松浦郡志式島(現在の平戸南部地域)の小近島・大近島に大耳・垂耳が棲んでいたとする。
現代の受容
芸能:近世以後、土蜘蛛は蜘蛛のすがたの妖怪であると広くみなされるようになった。浄瑠璃や歌舞伎では、源頼光と四天王が活躍する「前太平記」の世界が採られると、『平家物語』「剣巻」の山蜘蛛が題材として引かれ、江戸時代以後、さまざまな戯曲・舞踊作品に土蜘蛛が登場した。蜘蛛が妖術を用いる手法は、『善知安方忠義伝』の山蜘(やまぐも)や『白縫譚』の小女郎蜘蛛へと影響を与えている。
像:14世紀ごろの絵巻『土蜘蛛草紙』は巨大な蜘蛛の姿で描く。能の五番目物『土蜘蛛』とともに、後世に流通する蜘蛛の妖怪像の典拠となった。江戸時代以後の戯曲・舞踊や派生の作品はいずれも物語や能を典拠としており、『古事記』『日本書紀』や風土記に見える古代の土蜘蛛たちの伝説との直接的な参照関係は希薄であるとされる。漫画・アニメ・遊戯・広告の作品名と年は、依拠できる材料には示されていない。
出典・参考文献References
- 『古事記』 太安万侶 712神武紀に「都知久母」。忍坂(現桜井市)の人々を「尾の生えた土雲」と記す。
- 『日本書紀』 720神武・景行・神功紀。神武即位前己未年に大和の新城戸畔・居勢祝・猪祝を討たせ、高尾張邑の土蜘蛛を葛の網で討ち葛城と改称したと記す。神武紀は「身短くして手足長し、侏儒と相にたり」。景行12年は碩田国の白・青・打猿ら、仲哀9年は田油津媛の誅殺。
- 『常陸国風土記』国栖(くず)と都知久母(つちぐも)とは同じ意味であると記す。
- 『肥前国風土記』松浦郡志式島の大耳・垂耳、杵島郡嬢子山の八十女、彼杵郡速来の速来津姫など、女性首長を含む多数の土蜘蛛を記す。
- 『豊後国風土記』五馬山の五馬媛、禰宜野の打猴・頸猴・八田・國摩侶、網磯野の小竹鹿奥・小竹鹿臣、鼠の磐窟の青・白などを記す。
- 『丹後国風土記残缺』丹後で暴れた陸耳御笠を、崇神天皇の命を受けた日子坐王が討ち、與佐大山(いまの大江山と伝える)へ逃れたと記す。
- 『平家物語』「剣巻」で山蜘蛛と表記。源頼光が瘧の床で7尺の怪僧を膝丸で斬り、北野神社裏の塚にいた4尺の山蜘蛛を捕えて川原に晒した話。膝丸は以後蜘蛛切りと呼ばれる。能『土蜘蛛』のもとになった。
- 『土蜘蛛草紙』14世紀ごろの絵巻。頼光と渡辺綱が洛外北山の蓮台野で髑髏を追い、洞窟の20丈ほどの山蜘蛛を討つ。腹から死人の首1990、脇腹から子グモが出たとする。
ランキング順位Rankings
ゆかりの地Places
- 葛城一言主神社(奈良県)葛城山に土蜘蛛塚がある。神武天皇が土蜘蛛を頭・胴・足に分けて埋めた跡とされる。
- 上品蓮台寺(京都府)京都市北区。源頼光朝臣塚があり、土蜘蛛が巣くっていた塚とされる。
- 東向観音寺(京都府)上京区観音寺門前町。一条通の塚から出た蜘蛛灯籠が奉納されている。
- 北野神社(京都府)『平家物語』剣巻で、裏手の塚に全長4尺の山蜘蛛がいたとされる。
- 大江山(京都府)『丹後国風土記残缺』の陸耳御笠が逃れた與佐大山と伝え、大江山最初の鬼とする評価もある。
- 志式島(長崎県)現在の平戸南部。『肥前国風土記』で景行天皇が大耳・垂耳を捕らえたとされる。
特集Collections
カードCards
画風ちがいのカード。保存してシェアできる。
よくある質問FAQ
土蜘蛛とは何ですか?
古代の記紀や風土記では、朝廷に従わなかった土着の豪族を指す蔑称でした。中世以降、山中に潜む巨大な蜘蛛の妖怪として語られるようになりました。
土蜘蛛は実在したのですか?
『日本書紀』などに記された土蜘蛛は、実在の人物・集団を指す歴史用語です。妖怪としての土蜘蛛は、それらの記述と蜘蛛への恐れが結びついて形成された伝承上の存在です。
土蜘蛛の弱点は何ですか?
古典説話では、弓矢で射られたり、退治されたりしています。具体的な弱点は一定しませんが、武勇や弓術によって退けられる例が目立ちます。
土蜘蛛と蜘蛛は同じものですか?
名称は土隠(つちごもり)に由来すると考えられ、穴に籠る土豪の暮らしを指す。国語学上は体形とも生物の蜘蛛とも無関係である。オオツチグモ科の和名は近代の命名で、直接の関係はない。
妖怪としての土蜘蛛はいつ定着しましたか?
『平家物語』剣巻の山蜘蛛と能『土蜘蛛』、14世紀ごろの絵巻『土蜘蛛草紙』を経て、源頼光に対抗する大蜘蛛として知られるようになった。これらと記紀・風土記の土蜘蛛との直接の参照関係は薄い。
最終更新: · 編集: 百鬼編集室

